マブハイ！

　オークション終了まであと50秒。
　僕は、インターネットのオークションサイトにつないだパソコンの画面をにらみつけていた。
　前からずっと欲しかったマンガが出品されていて、あと50秒の間に他からの入札がなければ、その本がようやく自分のものとなるのだ。
　あと40秒。
　出品価格は500円だが、とりあえず僕は3000円で入札していた。
　このまま誰も入札してこなければ、出品価格の500円のままで手にはいることになるし、競合相手の入札金額が3000円以下なら、やはりこの本は僕が落札できることになる。
　だが、万が一、3000円以上で入札してくる者があった場合、それ以上の金額で対抗すべきか、それとも諦めるべきか。
　ほとんど見かけることのない本なので、いまこのチャンスを逃すと、次にいつ出会えるかわからない。だが、この本に3000円以上出してしまっていいものか…。
　そこが実に悩ましい。
　あと20秒。
　あと15秒。
　ああっ、他から入札が入っちゃったよ。
　入札価格が3100円に跳ね上がる。
　さらに対抗しようと思ったら3200円で入札しなければならない。
　とりあえず入札価格の欄に「3200」と入力して、入札ボタンをクリックしようがどうか迷ったところで、携帯が鳴った。
　そして、その携帯に気を取られた瞬間にオークションは終わっていた。
　ああ、落札しそこねちゃった。
　パソコンの横に転がっている携帯電話を手に取ると、渡邉さんからの電話だ。
「もしもし、浅野です」
「浅野くん、来週末の日曜日、空けておけ！」
「は？　なんですか、それ？」
「試合だ。テニスの試合をするぞ。あんにゃろー、絶対にこてんぱんに叩きのめしてやる！」
「あのお、ぜんぜん話が見えないんですけど」
「話は明日だ。明日のレッスンにくるんだろ。その時に説明するから、とにかく来週末の日曜日を空けておけ！」
「ちょ、ちょっと待って、その日は古本市が…」
　切れてる。電話、切れてるよ。こちらの都合を聞こうともせずに、自分の言いたいことだけ言って電話を切っちゃったよ、あの人。
　たしか、テニスの試合をするって言ってたみたいだけど。
　でも、僕ら、はっきりいって試合をするようなレベルじゃないぞ。
　いちおう、僕も渡邉さんもテニススクールに通ってはいるけれど、まだ初中級クラスにいて、外で試合をするようなレベルじゃないのははっきりしている。
　何を考えてるんだ、あの人。
　パソコンの画面をぼんやりと眺める。
　そこには、僕が落札しそこねてしまった『地獄はどこだ！』というマンガの表紙画像が映っていた。真崎守の初期作品で、これが手に入れば真崎守の単行本がほぼ揃うことになっていたのに。

　翌日、テニススクールでのレッスンが終わるなり、同じクラスのメンバーが渡邉さんを取り囲んだ。
　どうやら、試合にひっぱりだされるのは僕だけではなく、クラスのみんなであるらしい。
「渡邉さん、いったいどういうことなんですか？」
　いつも冷静な広瀬さんが、みんなを代表して渡邉さんに質問する。
「実は昨日、美加ちゃんの店に飲みに行ってたんだよ」
　渡邉さんの隣で美加さんがうなづいている。
　美加さんというのは、自称ジャズヴォーカリストで、新宿のバーでアルバイトをしている女性だ。
　僕は新宿のバーになど足を踏み入れたことがないので、気後れしてお店に行ったことはないのだけれど、中小企業経営者である渡邉さんは、接待の名目でしょっちゅう美加さんのお店に飲みに行っているらしい。
　昨夜もいつものように美加さんのお店に飲みに行き、たまたま隣りあった客もテニスをしているということで、美加さんを含めてテニス談義でもりあがったのだという。
　ところが、よくよく話を聞いてみると、その相手の通っているテニススクールというのが、僕たちの通っているスクールの系列店であった。
　僕たちの通っているテニススクールには系列店がいくつかあって、年に１回、その系列店同士での対抗戦を行なっている。その試合に出る選手は、スクール内でのトーナメントを勝ち抜いたトップクラスの生徒であり、初中級クラスの僕たちにはまったく縁はない。
　だけど、今年はどこのスクールが優勝したとか、うちは何位だったとか、けっこう僕たちレベルでも盛り上がったりしている。なんとはなしに、系列店間でのライバル意識みたいなものが芽生えていたりするのだ。
　おかげで昨夜も、「今年は負けたけれど、来年は絶対にうちが勝つ」だの、「県大会出場選手をひっぱりだしてきて卑怯だ」だのと、次第に会話がエスカレートして、挙げ句の果てに「初中級クラス同士でどっちが強いか、決着をつけようではないか」という話になってしまったのだという。
　相手の男性も初中級クラスだそうで、無性に渡邉さんに対してライバル意識が芽生えてしまったものらしい。実にもって迷惑な話である。
「渡邉さん、わたし、試合なんてしたことないよ」
　レッスン中に、いかに楽をするか、いかに走らないかを永遠のテーマとしている江口さんが口をはさむ。
「おれだってしたことないよ」と渡邉さん。
「じゃあ、なんで試合をしようなんてことになるんですか？」
　広瀬さんが突っ込む。
「だって、話の勢いでそうなっちゃったんだから、仕方ないだろ」
「僕はその日、古本市が…」
「相手だって初中級クラスなんだから、おれたちと似たようなもんだよ。心配することないだろ」
　あ、また僕の都合をスルーした。
「浅野ちゃんはともあれ、みんなだって予定もあるんだし、迷惑ですよ。ね、リタさん」
　広瀬さんがリタさんに話をふる。というか、なんで「浅野ちゃんはともあれ」ってセリフになるの？
　それまでみんなの話をニコニコしながら聞いていたリタさんが、ニッコリ微笑んで口を開いた。
「おもしろそうです。わたし、試合、してみたいです」
　えっ！
　思わず、リタさんの顔を見てしまう。
　リタさんというのは、日本人と結婚しているフィリピン人女性なのだけれど、はっきりいって僕らの中でテニスはいちばんへたっぴだ。なんで、初中級クラスにあがってきたのかも不思議なレベルで、まず、まともに試合になるはずもない。
「ほらみろ！　リタちゃんだってそう言ってるじゃないか」
　予期せぬ援軍を得て、渡邉さんが勢いづく。
「でも、僕はその日にどうしても行きたい古本市が…」
「勝ったら、みんなで美加ちゃんの店で打ち上げをしよう。おれが全部払ってやる」
「あら、それなら試合に出てもいいかも」
　江口さんがそんなことを言い出す。
　江口さん、40代半ばのおばちゃんなんだけど、酒が好きだからなあ。
　美加さんも当然、賛成派だ。
　となると、残るは僕と広瀬さんなのだけれど…。
「皆さんがそう言うのなら、仕方がありませんね」
　ああっ、広瀬さんまでがそんなことを。
　広瀬さん、けっこうクールを装っているけれど、美加さんに好意を持ってるのは見え見えだしなあ。
「申し訳ないけど、僕はその日、古本市が…」
「よし、決まった！　みんな、頑張ろうな。勝つぞお！」
「だから、僕は予定があるって言ってるのに…」
「浅野ちゃん、いくつになった？」
「に、26ですけど…」
「26にもなって、マンガばっかり買ってるから彼女のひとりもできないんだよ」
　うっ、反論できない。
「わたしも、頑張るますです」
「リタさん、そういう時は“頑張るます”じゃなくって、“頑張ります”って言うのよ」
「はい、頑張るます」
「よし、じゃあ、今日はこれから弁慶で作戦会議だ！」
　渡邉さんが勝手に決めて、そのまま近くの居酒屋にぞろぞろと移動していくことに。
　今日だって、狙っているマンガのオークションがあったのに。それが手に入れば、望月三起也の難しいところが揃うことになるのに…。

　結局、その夜は弁慶でガンガン呑んで、そのままタクシーで新宿に出て渡邉さんのおごりで美加さんのお店に乗り込んだ。
　初めての新宿のバーだ。居酒屋しか知らない僕は、やたらと緊張した。
　隣に若い女性が座って、水割りを作ってくれるのを、ひたすら呑んだ。なにしろ、ちょっと呑むとすぐにウイスキーと水を足してくれるので、呑む手をとめるタイミングが見つからなかったのだ。おかげで飲み過ぎて、意識がもうろうとして、ふと気がつくといつの間にやら別の店にいた。
　やたらとにぎやかなお店で、小さなステージの上で渡邉さんと江口さんがカラオケを歌うのを、日本人じゃない女性たちが陽気に手を叩いて盛り上げていた。
「お、起きたな」
　正面に座っていた広瀬さんが声をかけてくる。
「ここは？」
　リタさんの友だちがやっている店という部分だけ聞き取れたけれど、なにせまわりが騒がしいので、よく聞き取れない。
　リタさんの友だちということは、皆さん、フィリピンの方なのだろう。
　まわりを見回すと、美加さんは別のテーブルで、リタさんや店の女の子たちとやたらと意気投合して盛り上がっている。
　広瀬さんの横にはものすごい美女がいて、広瀬さんにあれこれちょっかいを出そうとしているのだけれど、広瀬さんはやたらといやそうな態度で避けようとしている。うーん、相変わらずクールな人だなあ。
　ま、美加さんがいるところで、いかに美人とはいえ、他の女性といちゃいちゃもできないか。
「アナタ、ダイジョーブか？」
　横からおしぼりを差し出されて、初めて自分の隣にも女性がいることに気がついた。
「あ、ありがとう」
　おしぼりを受け取って隣の女性を見て、僕は100万ボルトの電流に感電するような衝撃を受けてしまった。
　な、なんてかわいい女性なんだ。なんて可憐なんだ。なんて愛らしいんだ。
　心配そうに僕のことを見ている、日本人とは異なるアーモンド型のつぶらな瞳。
　健康的な褐色の肌。愛らしい唇。
　一瞬にして僕は恋に落ちていた。
　さよなら、浅倉南。キミはかっちゃんと一緒に甲子園にでも行ってくれ。
　さよなら、メーテル。貴女は銀河鉄道に乗って、機械伯爵を倒しにでも行くがいいさ。
　さよなら、綾波レイ。君は包帯まみれになってエヴァ零号機で使徒と戦ってくれたまえ。
　僕は過去の恋人たちに別れを告げた。
　もう、僕にマンガのヒロインは必要ない。目の前にいる君さえいてくれれば、それで十分なのだから。
　で、そのあとの記憶がまたなくなってしまう。
　あとで聞くと、すっかり酔っ払って歯止めをなくしていた僕は、さんざん彼女をくどいたらしい。
　覚えていません。まったく覚えていません。
　自分が何を言ったのか、何をしたのか、まったくもってきれいさっぱり記憶にありません。
　どうやら、さんざんアプローチを試みて、試合の応援に来てもらう約束をとりつけたらしい。
　まったく覚えていないぞ。
　だけど、ただひとつ、はっきりしていることがある。
　この翌朝、二日酔いの頭を抱えて苦しむ僕のポケットの中から出てきた１枚のカード。
　彼女からもらったそのカードには、「クリスティ」という彼女の名前が印刷されていた。
　そして、お店の名前はこのように書かれていた。
　「ニューハーフフィリピンパブ／マガンダン・バクラ」
　ニューハーフ…。『ストップ!!　ひばりくん！』万歳（涙）

　翌週のレッスンは針のむしろだった。
　よってたかってみんなにからかわれた。
「浅野ちゃん、彼女がいないと思ったら、そういう理由だったんだ」と渡邉さん。
「浅野くん、彼女とお幸せにね」と美加さん。
「浅野ちゃん、大丈夫、私は君を応援してあげるからね」と江口さん。
「応援してくれなくてもいいです。それより広瀬さん、僕の目の前にいて、どうして教えてくれなかったんですか！」
「僕はちゃんと教えたぞ。でも、浅野くん、まったく聞く耳を持たなかったじゃないか」
　憮然とした表情で広瀬さんがそう言う。
「店が賑やかすぎて、ぜんぜん聞こえなかったんだよお！」
「いや、君は彼女…、彼女でいいのか？　とにかく、彼女だか彼だかをくどくのに夢中で、僕の言うことをまったく聞こうとしなかったんだよ」
　「あなたは何かに夢中になると、人の言葉が耳に入らなくなる」とは、昔から親に言われ続けてきたセリフだった。それゆえ、「人の言うことはちゃんと聞きなさい」と、親からくどいほど言われて育ったはずなのに…。
「浅野さん、大丈夫です。わたし、昨日電話して、ちゃんとクリスティに言いました」
「ありがとう、リタさん」
「明日、クリスティ、ちゃんと応援来ますです。わたし、約束したです。よかったですね、浅野さん」
　にこやかにリタさんが言う。
　みんながそれを聞いて「それはよかった。おめでとう」と言って僕の背中をバシバシと叩く。
　明日、試合をパスして、古本市に行ってもいいですか？

　そして、とうとう試合の当日がやってきた。
　雨が降って中止になってくれという僕の願いもむなしく、雲ひとつない晴天となった。
　会場は渡邉さんが市内にあるレンタルコートを確保してあった。
　ガミラスの遊星爆弾がそのテニスコートを直撃して、それで中止になってくれてもいいと思ったのだけれど、デスラー総統はまだ地球には目を向けてくれていなかった。2199年までは、まだそうとう待たなければならない。
　ろくに試合もしたことのない者どうしだというのに、試合は６ゲーム１セットマッチで行なうのだという。６ゲームの試合なんて、したことないぞ。
　男子ダブルス１試合、女子ダブルス１試合、ミックスダブルス１試合をおこない、２勝以上したチームの勝ちとなるのだそうだ。
　うちのチームは、渡邉さんと広瀬さんが男子ダブルス、美加さんと江口さんが女子ダブルスのペアを組み、ここで２勝をめざす。
　先週の衝撃でまったく戦力にならない僕と、そもそもが戦力外であるリタさんは、ミックスでペアを組むことになったが、このペアに関しては誰も期待はしていない。いいんだ、僕なんて…。
　さいわいなことに、リタさんが電話で応援にくることを確認してくれたクリスティさんは、姿を見せていなかった。
　彼女？彼？が姿を現したなら、きっと自分はパニックを起こして、試合になんかならないだろう。
　このまま来なくていいです。

　初戦の男子ダブルスがスタート。
　相手のひとりは、渡邉さんに似た、ずんぐりむっくりの体型をしていて、テニスの実力も渡邉さんと似たり寄ったりで、ま、初中級としては平均的なレベルと言うべきであろう。
　問題はもうひとりの選手だった。むちゃくちゃ背が高い。おそらく、１メートル９０センチぐらいはあるのではないだろうか。
　この選手がネット前に立つと、どこを抜けばいいのか、まったくもって困ってしまう。
　なにしろ、生半可なロブをあげても簡単に届いてしまうし、リーチが長いのでネット前での守備範囲もものすごく広いのだ。
　クロスに返しているはずのボールが、ラケットをちょいと伸ばすだけで簡単につかまってしまう。
　ピンチだ。
　案の定、試合は先方のペースで進んでいく。
　渡邉さんと先方のずんぐりさんがお互いにミスを重ね、これに関してはほぼいい勝負となっている。が、我がチームのエース、広瀬さんのボールが片端から先方のノッポさんに捕まってしまうのが厳しい。
「こりゃ、ダメね。あの蜘蛛男には勝てないわ」
　早くも美加さんが断定する。
「ここで負けたら、最後はあんたたちの肩にかかってくることになるわよ」
　江口さんが僕とリタさんに向かって言う。
「はい、頑張るますです」
　いや、無理だよ。僕とリタさんじゃ勝てないよ。
　美加さんも同じことを思ったのだろう。僕の顔を情けなさそうに見てから大きくため息をつくと、「仕方ない。最後の手段を使うか」、そう言うなり口の横に手をあてて、コートに向かって大きな声をあげた。
「ガンバッテ〜ッ！！　広瀬さんガンバッテ〜ッ！　愛してるわよ〜っ！」
　ネット前に詰めていた広瀬さんが、その声援にものすごい勢いで振り向いて美加さんの方を見る。その目が驚愕に見開かれている。アホのように口が開いている。とても、いつものクールな広瀬さんとは思えない表情だ。
　でも、いま、試合の真っ最中で、ネットの向こうのずんぐりさんがボールを打とうとしている瞬間なのに、よそ見をしていていいのか？
「広瀬さ〜ん、ガンバッテ〜ッ！！」
　美加さんが大きく手を振りながら声援を送る。
　広瀬さんはアホそのものの表情で、大きくうなずく。そして、そのまま相手の方を見ようともせずにラケットをネット前に突き出すと、ずんぐりさんの打ったボールをネットのむこうがわに叩き落とした。
「よし、これでなんとかなるかも」
「あ、あの、美加さん、いま、広瀬さんのことを愛してるって…」
「そんなもん、やる気を出させるために言ってみただけに決まってるじゃない。なに？　本気にしたの？」
　美加さんがニコリともせずにそう言う。
「ううっ、怖い。女の人って怖いです」
「あら、だからニューハーフに走っちゃったわけね」
「ちがいますっ！」
　思わず大きな声で叫んでしまう。
　コートの広瀬さんと渡邉さんが、「いったい何が？」という表情でこちらを振り向く。
「なんでもないのよ〜。ガンバッテね、広瀬さ〜ん。愛してるわよ〜！」
　広瀬さんたら、コートの上でこぶし握りしめてガッツポーズをとってる。何も知らずにかわいそうに。
　でも、おかげで試合はここで流れが一転した。
　広瀬さんが、ノッポさんのボディに攻撃を集中する作戦に切り替えたのだ。高いところを抜くロブや、左右を抜くストレートはあっさり捕まっていたのだけれど、背が高すぎて真っ正面のボールを処理するのが苦手だったらしく、その攻撃がポイントを稼いだ。
　調子に乗ってノッポさんを攻め、ポイントをとるたびに美加さんの方に手を振る広瀬さん。クールな大人のイメージがガタガタと音をたてて崩れ去っていくぞ。
　そして、一度流れがこちらに来ると、渡邉さんのプレイにもミスが出なくなり、あとはたたみかけるようにポイントを奪って６−４での逆転勝利となったのだった。

「やりました、美加さん。勝ちました」
「お疲れ様。さすが広瀬さん。さ、今度は私たちが頑張らなくちゃ」
　試合が終わるなり駆け戻ってきて報告する広瀬さんに、ねぎらいの言葉をひとことかけて、美加さんが立ち上がる。
　広瀬さんは「えっ、それだけ？」って表情をしているけれど、それだけなんですよ。女性はこわいんですよ。
「じゃあ、遠慮なく勝ちに行きましょうか。勝ったら、今夜も渡邉さんのおごりで飲めるしね」
　江口さんがラケットを手に立ち上がる。
　なんか、自信満々なんですけど、その自信はどこから来るんでしょうか。江口さん、コートでは自分の手の届く範囲より外のボールには、ほとんど手を出さない手抜きテニスしかしてないじゃないですか。
　だが、実際に試合が始まってみて驚いてしまう。
　なんと、江口さんがコート狭しと走り回っているのだ。
　前にいる美加さんのサイドを抜かれたボールを、絶対に間に合わないと思うようなタイミングのボールを、あっさりと追いついて打ち返しているのである。
「え、江口さんが走ってる！　しかも、速い！」
　びっくりしてそう口にすると、渡邉さんが「そうか、浅野ちゃんは知らなかったんだ。彼女、高校生の時には陸上部で、インターハイにも行ってるだよ」と教えてくれる。
「その頃、イヤになるほど走らされたので、もう走るのはうんざりだって。だから、ふだんのレッスンでも走ろうとしないのさ」
　ええっ、江口さんが陸上部！　インターハイ！
　だけど、それっていつの話ですか。大昔の話じゃないですか。
「すごいです。江口さん、走るのがとっても速いです」
　リタさんが手を叩いて大喜びしている。
　相手のペアも決してヘタではないのだけれど、どこに打っても江口さんが追いついてしまうので、だんだんリスキーなコースを狙うようになってきて、それがアウトしたりネットにひっかかったりということが多くなってくる。
　美加さんもミスの少ない確実なプレイをするので、相手はずるずるとゲームを失い、完全に一方的な展開となる。このままだと６−０で圧勝という流れだ。
　だが、世の中、そうそうこちらに都合よくはできていない。
　ゲームカウント５−０。
　美加さんのサーブを、相手がクロスにリターンを打つ。
　江口さんがそのボールに向かってポーチに飛び出した瞬間、江口さんの足がもつれるような感じになり、そのまま立ち止まってしまう。そして、美加さんを呼び寄せて何かを告げ、さらに相手ペアにも何か言葉をかけている。
　どうしたのだろうと思っていると、美加さんの肩につかまりながら、右足をひきずって歩き出した。
　みんなであわてて江口さんのところに駆けつける。
「ごめんねえ。もうちょっとだったんだけど、肉離れやっちゃった。やっぱり、急に走ったりするとダメだよねえ」

　かくして、１勝１敗となり、勝敗は僕とリタさんのペアにかかってくることとなってしまった。
　なにごとであれ楽天的にできているリタさんは「ダイジョブです。勝てるですよ」などと言っているけれど、僕はどちらかというと現実的にできているから、そうそう楽観視はできない。
　相手は、そもそもの原因となった、渡邉さんとバーで隣り合わせになったという男性と気の強そうな奥さんの夫婦ペアだ。
　なんだか、夫婦ペアというだけで、ものすごく強そうな感じがしてしまう。
　相手のサービスから試合がスタート。
　僕がしょっぱなのリターンをミスしてしまう。なんだか、ものすごく緊張していて、いつも以上にヘタクソになっているぞ。
　リタさんはいつもの実力そのままに、ホームランを打ってしまう。
　そんな調子で、あっさりとファーストゲームを落としてしまう。
「浅野ちゃん、落ち着け」
「リラックスして」
「大丈夫、ここから挽回だ」
　みんなの応援の声が、ぐわんぐわんと響いてくる。
　うわっ、なんだか、地に足がついていないような感じがする。
「浅野さん、ダイジョブ、ダイジョブ、ここからバンカイです」
　だけど、ぜんぜんダイジョブじゃなかった。そもそもがうまくないのに、チームの勝敗のかかった試合ということでものすごく緊張してしまって、ぜんぜん普段のプレイができない。
　リタさんがダブルフォールトを連発して０−２となり、さらに２人でリターンをミスって０−３となる。
　コートチェンジでいったんベンチに戻り、水分を補給する。
　みんなして「大丈夫」だの「リラックス」だのと声をかけてくるが、気持ちはうわずったままだ。
　次は僕のサービスゲームだ。なんとかここで１ゲームでもとらないと。
　ふらふらと立ち上がって、コートに向かおうとした時、広瀬さんが僕の肩をつかんだ。
「浅野！」
「はい？」
「波動砲を撃て！」
「はっ？」
　予想だにしなかった突然のセリフに、ボケッと広瀬さんの顔を見てしまう。
「復唱はどうした、浅野！」
「あ、はい！　波動砲で、コロナを撃ちます！」
　反射的にそう答えてしまう。身体に染みついたアニメのセリフがつい口から出てしまう。
　だけど、なんだか気合いが入ってきたかもしれない。
　波動砲だ。そうだ、波動砲だ。
　僕は自分にそう言い聞かせながら、コートに向かった。
「なんだ、いまのは？」
「宇宙戦艦ヤマトです。おたくには、ああいうのが効くんですよ」
　渡邉さんと広瀬さんの会話が後ろから聞こえてくる。いいんです、どうせ僕はおたくですから。
　エンドラインに立ち、頭の中でサービスを打つ準備を整えていく。
「エネルギー充填１２０％」
「電影クロスゲージ明度２０」
「耐ショック耐閃光防御！」
　トスをあげる。
「波動砲、発射！！」
　思いっきりフラットサーブを打つ。
　おおっ、入った！　サービスエースだ！
　この一発で気持ちが落ち着いてきた。それで急に僕のテニスがうまくなるはずもないけれど、なんとか冷静にプレイができるようにはなった。
　おかげで、なんとかかんとかこのゲームをキープして１−３。
　だけど、次のゲームは相手にサーブをキープされて１−４となってしまう。
　やっぱり、実力的には向こうの方が上だ。

「この一球は絶対無二の一球なり。浅野、エースをねらえ！」
　広瀬さんの言葉を背に、コートに向かう。
「今度のはなんだ？」
「エースをねらえ！ってアニメです」
「よく知ってるなあ」
「なに、僕らの世代では一般教養ですよ」
　そんなの一般教養じゃないよ。広瀬さん、あなたもけっこうおたくなんじゃないの？
　それに、「エースをねらえ！」とか言われても、今度はリタさんのサーブだよ。僕に「エースをねらえ！」とか言っても、しょうがないじゃん。
　しかし、ここで１ゲームを取り返しておかないと、むちゃくちゃかなり厳しいことになる。完全に追い込まれてしまう。
　リタさんのゆるゆるサーブを旦那が丁寧にリターン。それに思いっきり飛びついて、なんとかボレーを決める。よしっ！
　次は気の強そうな奥さんがリタさんを狙って打ってきたボールがアウトして30−0。
　いけるかもと思ったところで、リタさんがダブルフォールト。30−15。
　なんとか引き離さなければと集中しようとしたところで、応援席の方がにわかに騒がしくなった。
　振り向くと、僕らのチームの応援席にやたらと人が増えている。
「浅野サ〜ン、ガンバッテ〜！！」
　予期せぬ応援に背中に脂汗が噴き出してくる。そして、応援のメンバーをよくよく見てみると、クリスティさんが懸命に手を振って応援しているのが見えた。
　ああっ、可愛い。なんて可愛いんだ。
　思わずトローンとしてしまうが、ニューハーフという言葉が脳裏を横切り、狼狽してしまう。
　いや、可愛いけれど、本当に可愛いけれど、彼女は女性じゃないんだよ。
　女性じゃないけれど、でも、可愛い。
　ああっ、なんか、頭の中が！！
　混乱した僕に、知らない言葉の応援が一斉に襲いかかってくる。
「浅野さん、よかったですね。クリスティ、応援に来てくれました。お店のみんなも応援に来てくれました。私たち、頑張るです。勝ちましょう、浅野さん！」
　リタさんが声をかけてくるが、僕は頭の中が混乱して、何がなにやらよく分からなくなり、呆然としたままゲームを落としてしまう。
　この時、相手の旦那も真っ青な顔になっていたのだけれど、自分のことで精一杯だった僕はそのことにまったく気がついていなかった。

「浅野サン、ガンバッテクダサイ」
　クリスティに手を握られて、真っ正面から見つめられ、僕はさらに混乱していった。
　だって、だって、本当に本当に可愛いんだもん。ものすごく可愛いんだもん。
　だけど、女性じゃないんだよ。僕はどうすればいいのさ。
「この応援は、はたしてプラスなのかマイナスなのか？」
　後ろで渡邉さんたちが、この事態をどうしたものかと頭をかかえている。
　リタさんはフィリピンの言葉で、来てくれた他のメンバーたちと早口で会話をかわしている。
　いや、まだ試合は終わってないんだから、そんな楽しそうに談笑をしている場合じゃないんですけど。
　僕はスポーツドリンクを口にするのも忘れてコートに向かい、ラケットすら忘れていることに気がついてあわててベンチに駆け戻った。
　何をやってるんだ、オレ？　試合に集中しなければ。
「リタさん、頑張ろう。ボールに集中しよう」
　アドサイドを守るリタさんのところに駆け寄って、声をかける。
「はい、頑張るます」
　そして、リタさんは僕にむかって驚愕の情報を告げたのだった。
「あのね、あの男の人、お店によく来るそうです。お店のみんなが言ってました。とってもマリボウ…スケベなお客さんて言ってました」
「あの男の人って、あの人？」
　ネットの向こう側で青ざめながらラケットをかまえている男性かと聞くと、リタさんがうなずく。
　おおっ、これはこれはとんでもない武器を手に入れてしまったぞ。
　その時、僕はニヤリと笑っていたかもしれない。悪魔のような笑みを浮かべていたかもしれない。
「リタさん、勝てるかもしれない。みんなに、向こうの男性を応援するように言って。思いっきり応援するようにって」
「えっ？　なんで敵を応援するですか？」
「そうすればきっと勝てるから。大きな声で思いっきり応援するように頼んでよ。なんなら、向こうの応援席に移動して応援してもらってもいいから」
　リタさんがお店のニューハーフたちに大きな声で何かを伝える。むこうが何かを聞き返すが、再びリタさんが何かを伝えて、みんなはゾロゾロと向こうの応援席に移動していった。
　うちのチームのメンバーも、向こうのチームのメンバーも、みんな怪訝そうな表情をしていたが、そんなことおかまいなしでにぎやかな応援が開始された。

　約20分後、僕たちは大逆転勝利をおさめていた。
　動揺した旦那がミスを連発し、次々とゲームを落としていったからだ。
　僕たちとしても、奥さんの方にボールを打たずに、ひたすら旦那の方にボールを集めればいいだけなので、労せずしてポイントを稼ぎ続けた。
　しかも、みんなの応援から次第に事態を把握しはじめた奥さんの表情がどんどん険しくなっていき、それと同調するかのように旦那の表情はあわれなほど情けないものとなっていった。はっきり言って、テニスどころではなかっただろう。
　そして、試合が終わるなり、気の強そうな奥さんが旦那をラケットで思いっきり殴ると、そのままコートを離れ、旦那はオロオロとその後を追っていった。
「浅野ちゃん、君は実に卑怯な男だねえ」
　渡邉さんがすっごく嬉しそうに僕の肩を叩く。
　僕としても、さすがに相手の男性が哀れに思えたが、美加さんと江口さんから「よくやった。勝負に情けは禁物よ」とさんざん誉められて、多少は罪の意識も薄らいだ。おそらく、２人がそう言うのは、美加さんは自分の店にみんなが来るから、江口さんは渡邉さんのおごりで飲めるからなのだろうけれど。
　というか、江口さん、肉離れをやってるのに、飲みに行って大丈夫なんですか？
　リタさんはケータイで仕事中の夫に「試合で勝ったよ！」と嬉しそうに報告をしている。リタさんの旦那さんも、あとで祝勝会に合流してくれるそうだ。
　ただ１人、広瀬さんだけは憮然とした表情をしている。美加さんの「愛してる」宣言が、口先だけということに気がついてしまったのだろう。
　そして僕はというと、クリスティに「オメデトウ！」と抱きつかれて、死にそうになっている。嬉しいのか、嬉しくないのか、自分でもぜんぜん分からない。
　どうしよう！！


※「マブハイ！」とはタガログ語で「乾杯！」「ようこそ！」「ハロー！」というような意味です。
　「マリボウ」は「スケベ」、「マガンダン・バクラ」は…そんなタガログ語を知っていたら、絶対に怪訝に思われるので、ここで説明するのはやめておきましょう（笑）