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スマッシュを打とうとした瞬間、石井は我が目を疑った。 スマッシュのチャンスボールをよこした本人が、ネットに向かってダッシュしてくるではないか。 なんで？ そこはネットダッシュする場面じゃないでしょ。スマッシュにそなえて、後ろに下がって構えなきゃダメじゃん。スマッシュにむかって突っ込んでくるなんて、どう考えても自殺行為でしょ。 危ないからスマッシュを打ってはいけないと思ったが、思った時にはすでにラケットを振り切っていた。ラケットはボールをきれいにとらえ、ボールは一直線に相手の顔面へ。そして、見事に顔面のど真ん中に激突！ あまりにも見事すぎて、コートにいた全員が凍り付いた。 ただひとり、ボールを受けた白井さんだけが、コートにひっくり返っていく。 石井の目には、その光景がまるで、ジョン・ウーの映画の一場面であるかのように見えた。至近距離でチョウ・ユンファの撃った銃に目を焼かれて、スローモーションで倒れていくサリー・イップ！ 「いった〜い！」 仰向けにひっくり返ったサリー・イップが叫ぶ。サリー・イップにしては、あまり麗しくない声だが、緊急事態なのでとりあえず許そう。 石井は、あわててネットを飛び越えると、ひっくり返った白井さんに駆けつけた。 「大丈夫ですか？」 「鼻血。鼻血、出てない？ 大丈夫？」 心配はそこかい？ 「出てません。低い鼻が、さらに低くなっただけです」 「ひっどーい！ ボールぶつけておいて、そんなこと言うなんて、石井さん、ひっどーい！」 白井さんが鼻を押さえていた手をこわごわとはずす。色の白い顔のど真ん中に、ボールのぶつかったあとが丸く真っ赤についている。 吹き出したくなるのを石井は必死にこらえる。白井さんという女性はけっこう美人だったりするのだけれど、キャラがキャラなので、けっこうこういう姿が似合っていたりするのだ。 「うん、なんともなってない。大丈夫だ」 「ホント？」 「ああ、ホントホント。ぜんぜんなんともなってない。大丈夫」 東京ドームのミニチュアみたいな形をした全天候型の屋内テニススクール、グリーンドーム・テニススクール。ドームの中には３面のテニスコートがあり、ホームページなどでは「冷暖房完備で紫外線99％以上カットの全天候快適空間！ 足腰に優しい高級カーペットコート！」をうたい文句にしている。 確かに、天気は気にしないでいい。他のテニススクールが雨の日にレッスンが中止になったりするのに比べて、天気によるレッスン中止がないというのは、生徒にとって大きなメリットだ。 日焼けの心配がいらないというのも、女性にとっては大きな魅力だろう。屋外のコートでテニスをする時に、多くの女性は暑さをこらえて長袖を着込んだりしているのだから。 しかし、いくら冷房をフル稼働させても、夏には猛烈な温度と湿度でサウナ状態になるとは、ホームページにはひとことたりとも書かれていない。真夏の太陽にあぶられたドームの内部は、高温多湿の熱帯雨林気候のジャングルと化してしまうのだ。このスクールで初めての夏を体験した生徒は、あまりの暑さにひたすら呆然とすることになる。 だが、石井はこのテニススクールに通うようになって半年。さいわいなことに、まだ夏のドームを体験していない。地獄を見るのはこれからと、まわりのメンバーは楽しみにしている。 石井は学生時代にテニスをやっていたおかげで、最初から中上級というランクのクラスに入れられた。大学を卒業して15年ほどのブランクはあるものの、基本的な動きはちゃんと体に染みついて残っていた。 ちなみに、中上級というのは、とりあえず基本的なプレイはひと通りできるレベルと位置づけられている。本人としては、それよりひとつ上の上級クラスに通うだけの実力があると思っているので、現在のレッスンにいささかの物足りなさがないわけではない。実際、レッスンの中でゲームをすれば、たいていは勝てている。近いうちに上のランクに移動して、クラスも変わることになるのだろうと予想していた。 もっとも、クラスに馴染んでみると、しばらくこのメンバーと一緒のクラスにいるのも楽しいかもと思い始めてもいた。これまで、地元でのつきあいなどまったくなかったので、地元でテニスを一緒にやっているだけというつながりが、石井には新鮮だった。 それまで一緒に遊んでいた仲間というのは、ほとんどが仕事か学校のつながりだった。学校も仕事も関係ない、テニススクールに通わなければまったく接点などなかったであろうメンバーと飲みに行ったりするのが、石井にはやたらと楽しかった。 そして、そのメンバーの中でいちばん目立っていたのが、白井さんという女性だった。42歳の既婚女性であるのだが、実に天真爛漫で、コートの中では誰よりもにぎやかだった。そのにぎやかさは、傍若無人という言葉と紙一重ではあったのだけれど、明るいキャラクターゆえにかろうじて天真爛漫というサイドに踏みとどまっていた。 その白井さんにスマッシュをぶつけてしまったのである。ただでさえにぎやかな白井さんが、レッスンの残り時間、さらににぎやかになったことは言うまでもない。クラスの他のメンバーが面白がって、「石井さん、ひどいよねえ」「真っ正面から顔面にスマッシュだもんねえ」「あれって、完全に狙ってたよね」「ボールがぶつかった瞬間、すごい音がしたよね」「ほら、白井さんの鼻の形が変わってるもの」などと囃したてるものだから、なおさら大騒ぎされることとなってしまう。 「石井さん、あれってわざとぶつけたんですか？」 「ほんとに痛かったんですからね」 「わたしの美貌に傷がついたらどうしてくれるんですか？」 実にうるさい。 唯一、担当コーチだけが「スマッシュのチャンスボールをあげておいて、顔面から前に突っ込んでいく人がいますか！」と、実にもっともなセリフを口にした。まさにその通りだ。 しかし、そういうアドバイスがもっともむなしい相手が白井さんという女性なのだった。はっきりいってしまうと、テニスに関するセンスがない。コート上でどう動けばいいのかということが、まったくといっていいほど分かっていないのだ。なんでその場面で右に動く？ どうしてそこで前に詰める？ せっかくネットに詰めたのに、どうしてまた後ろに下がるの？ 白井さんのプレイを見ていると、石井の頭の中には数多くのクエスチョンマークが飛び交ってしまうのだった。 だからこそ、今日のような事故が起きてしまう。スマッシュを打とうとしている人間に、真っ正面から突っ込んでいくテニスプレイヤーなんて、彼女以外にはそうはいないだろう。 だが、ヘタなのだけれど、本人はめいっぱいテニスを楽しんでいる。 ボレーを決めてポイントをとれば、そのたびに「やったあ！」と叫んで飛び上がり、飛んでくるボールに駆け寄って空振りをすると、「なんでえ？」「どうしてえ？」と大きな声で叫ぶ。石井にしてみれば、その場でボールを待てばいいだけなのに、無駄に前に詰め寄って空振りをしているのだから、「なんでえ？」も「どうしてえ？」もないだろうと思うのだが。いずれにせよ、心底テニスを楽しんでいる彼女は、愛すべきキャラクターではあるのだった。 しかし、愛すべきキャラクターだと思うのは、利害関係がないからこそだということを、石井はまだ気がついていなかった。のちに、たっぷりと思い知らされることとなるのだけれど。 その日のレッスン終了時、コーチから次のような話が持ち出された。 「えー、来月ですね、クラス対抗のミックスダブルス大会を開催することになりました。このクラスからも、どなたか参加しませんか。同じようなレベルのクラス同士の対抗試合ですから、かなり面白い試合ができますよ」 みんなの実に実に嬉しそうな表情が石井の方を向く。 「そりゃあ、石井さんと白井さんがペアを組むしかないよねえ」 なんでだよ！ 「今日の練習を見ても分かるように、相性バッチリだし」 どこがだよ！ 「石井さんと組めば、優勝間違いなしだよ。ねえ、白井さん。なんたって、強烈なスマッシュという武器もあるんだし」 ぶつけてやろうか！ 「じゃあ、石井さんと白井さんのペアで出場しますか？ 白井さん、いいですね？」 だから、まとめにはいるなよ、バカコーチ！ 彼女に聞くんじゃなくって、オレに聞けよ！ 「えー、わたしなんかでいいんですかあ？ すみません、石井さん、組んでもらえますかあ？」 いいわけないだろ！ なんでそんなに嬉しそうにしてるんだよ？ 勝てるわけないんだから、ペアなんか組みたくないってのに。 「はあ…。それって、ぜんぜん嬉しくないんですけど」 とりあえず、正直な感想を口にしてみる。 「えー、どうしてですかあ？ わたしのこと、嫌いなんですかあ？ スマッシュぶつけたんですよ。組んでくれたっていいじゃないですかあ？」 スマッシュぶつけたのは関係ないだろ。はあ、もう…。 「ああ、もう、わかりました。出ます。出させていただきます」 まあ、勝つことは期待できないけれど、とりあえず試合を楽しめばいいや。石井はそう思った。そう思った自分を、あとでとっても後悔することになるのだけれど。 試合に出ることになったのは、全部で８ペアだった。集まったのは、中級クラスと中上級クラスという、それほど試合には慣れていないレベルのメンバーだった。石井にしてみれば、優勝の狙える顔ぶれである。 ただし、白井さんと組んで優勝が狙えるかとなると、かなり絶望的な気がしないでもない。 試合は、４ペアずつのふたつのブロックに分けて総当たり戦を行ない、上位２ペアずつが決勝トーナメントに進み、下位２ペアずつがコンソレ優勝を目指す下位トーナメントを行なうことになる。まずは、ブロック戦の３試合で２つ以上勝つのが目標なのだけれど…。 あっさり３連敗を食らう。 最初の２試合は、まったく試合にならなかった。 １試合目は、試合に出ることに緊張していて、白井さんがまったく動けなかったのだ。いつもなら、ミスをするたびに「なんでえ？」「どうしてえ？」「ごめんなさーい！」と、大騒ぎをするというのに、この試合ではその声すら出ていなかった。たかがスクール内での試合だというのに、ガッチガチに緊張して、まるっきりまともに動くことができなかったのだ。サーブを打てばダブルフォールトを連発し、リターンにまわれば空振りをし、チャンスボールはことごとくネットにかけた。 石井は白井さんがミスをするたびに、「ドンマイ！」「大丈夫大丈夫」「気楽にいこう」と声をかけ続けたが、終いには同じセリフを繰り返すことにうんざりして、試合よりも他のセリフを探すことにエネルギーを費やした。 「気持ちを楽にして！」 「らくーな気落ちで行ってみよう」 「リラックスしていこう」 いろいろ言い換えてはいるが、言っていることはぜんぶ一緒だ。 さすがに、まさかここまで試合にならないとは思ってもいなかった。ふだんのレッスンでは、もう少しましなテニスをしていたというのに。石井がどんなに頑張ってポイントを稼ごうと、それ以上に白井さんが順調にミスをし続けた。 ２試合目は１試合目よりはマシだった。ただし、どこがマシになったかというと、「なんでえ？」「どうしてえ？」「ごめんなさーい！」というセリフが飛び出すようになったというだけ。多少は緊張がほぐれたということなのだけれど、テニスに関しては１試合目とまったく同じだった。白井さんのところにボールが飛んだ瞬間に、そのポイントを落としたも同然という試合だった。 石井は少しでもカバーしようとコート中を走り回ったが、ダブルスコートをひとりでカバーできるわけもなかった。というよりも、カバーする以前に白井さんがミスってしまうので、カバーのしようもなかったのだ。 なんでこんな情けない試合をしなくちゃならないんだ？ ぜんっぜん楽しくないじゃん。せめて、相手のサービスを返してくれよ。そうじゃなきゃ、試合が始まらないじゃん。 だんだん石井も機嫌が悪くなってくる。勝てないにしても試合を楽しめばいいや、などと思っていたバカはどこの誰だ？ そんな試合、楽しいわけないじゃん。 だが、石井は表面上は明るく振る舞って、ひたすらミスをした白井さんを励ました。ああ、オレってば、まるっきりの“いい人”じゃん。 試合が終わると白井さんはしょぼんと肩を落として「ごめんなさいね」と謝った。 なんでこの人が中上級クラスにいるんだ？と思いつつも、殊勝に謝るその姿に、石井はちょっとだけ胸がキュンとなった。年上だけど、人妻だけど、ちょっとだけ可愛いじゃん。 「でも、次は頑張るから。さっきは、ほんのちょっと緊張していただけ。わたしの実力はさ、こんなものじゃないんだから。次は実力発揮して楽勝。ま、まかしといてよ」 可愛くねえよ！ それでも３試合目になると、ようやく緊張も解けてきたのか、さすがの白井さんもいつもの実力が出てくるようになった。もっとも、いつもの実力ということは、かろうじて相手コートに返るボールが増えてきたというだけのことなのだけれど。そして、ミスるたびの「ごめんなさーい！」という声のテンションも、２試合目よりもさらに元気よくなっていた。そうだよな、この賑やかさがなければ、白井さんじゃないよな。 なんとか相手コートに返るボールが多くなれば、石井としてもポーチに飛び出してボレーを決めたりするチャンスも増え、それなりにいい展開になった。相手が上級クラスであれば通用しないような無理なポーチも、このレベルであればストレートを抜かれる心配もそれほどしないですんだ。 それでも、肝心なところで白井さんが着実にミスをしてポイントを失い、けっきょくは２−６の負けとなった。 上位４チームは優勝を争うトーナメントを行なうが、下位４チームでもコンソレと言って、下位４チームの中での優勝を争うトーナメントを行なうこととなっている。コンソレとはコンソレーション（慰め）の略なのだけれど、そんなんで慰められてもなあと、石井は大きなため息をついた。 ようやく白井さんの緊張もとけてきたとはいえ、このままでは相変わらずミスを連発して負けるに決まっている。なんとか対策はないものか。下位トーナメントで緒戦負けを食らうのは、さすがに勘弁してほしい。 「白井さんね、次の試合なんだけど、前を守る時、ネットにべったりくっついて守ってくれる。上を抜かれたボールはこっちが走って拾うから」 ネットに貼り付いて守れば、それだけボールをネットにひっかける危険性が減る。 「リターンはとにかく返してくれればいいから。いいところに返そうとか、リターンで点をとろうとか、そういう身分不相応なことは考えないでいいからね」 「わかった」 例によって「ひっどーい！」が飛び出すかと思ったが、真剣な表情でうなづいている。 「よし、次こそは勝つぞ！」 手のひらを上にして差し出す。 「勝つぞ！」 手のひらを上からパンと叩いてくる。おっ、ちょっとは盛り上がるかも。 下位トーナメントの試合が始まった。 その最初の相手も、こちらと同様、ブロック戦での全敗ペアだ。いくらなんでも、ここに負けることはあるまい。 石井のサービス。 なんということのないサービスの処理をミスって、へろへろのリターンが白井さんの真ん前に戻ってくる。白井さんは、石井の指示を忠実に守って、ネットにべったりとはりついて守っている。その目の前に飛んできたチャンスボールを丁寧にボレーで決めて、まずは最初のポイントを奪う。 「やったーっ！ やったーっ！」 白井さんが両手をあげて、ピョンピョンとびはねて喜んでいる。 「ヤッターマンかっちゅうの」 石井は聞こえないようにつぶやくが、もしかすると白井さんの「やったーっ！」が出るのは今日初めてかも知れないと思い、なにげに「よかったなあ」などと思ってしまう。白井さんの喜ぶ姿に、ついニッコリとしてしまう。 石井自身は攻撃的なテニスが好きなのだけれど、まずは丁寧につなぐテニスを心がけた。とにかく、つなぎさえすればミスってくれるというレベルの相手であった。まあ、それを言うなら、こちらだって似たようなレベルではあるのだけれど。 １ゲーム目を危なげなくとり、チェンジコートをして相手のサービス。 さほど勢いのないサービスなので、白井さんもミスることなく、きっちりと返している。そのリターンボールが、甘いコースに打ち返されてきたところをポーチに出て叩く。似たような展開が繰り返されて、２ゲーム目もゲット。 これならいけるかもしれないと思ったが、続くゲームは、白井さんがダブルフォールトを連発し、さらにはリターンボールの処理ミスが続き、あっさりと落としてしまう。 ４ゲーム目は先方のサービス。白井さんのミスに危機を覚えた石井が、白井さんがボールにさわる前に自分が決めようと強引にポーチに出たりして、逆にミスを連発して落としてしまう。丁寧につなぐことでとった１ゲーム目とは、まったく正反対の展開となってしまう。 かくして、きわめて低いレベルでの応酬が繰り返され、ゲームは一進一退の展開となる。勝敗の決め手は、どちらのミスが多いかという一点にかかってしまう。多くミスった方が負けという、石井にとってはなんともいらだたしい展開となってしまったのだった。 なんで、なんでこんなレベルの試合をしていなければならないんだ？ 石井の頭の中では、そんな疑問がグルグルと渦を巻いていたのだけれど、だんだんと石井のプレイまでがまわりの３人に引きずられていってしまう。 ヘロヘロのサービスを我慢しきれずに打ち込もうとしてネットに引っかけ、チャンスボールに駆け寄ってスマッシュを打てばエンドラインを大きく越えてしまい、ボレーをサイドに流せばサイドアウトしてしまう。何度も何度もラケットをコートに叩きつけたくなるような情けないミスを重ね、そのたびに白井さんから「ドンマイです」と声をかけられる屈辱。完全に負のスパイラルに巻き込まれて、そこから抜け出せなくなっていた。 そして気がつけば、ゲームカウントは５−５と並び、白井さんのサービスだ。これをとれば勝ち。落とせば負け。 白井さんのファーストサービスを相手がネットにひっかけてフィフティーン・ラヴ。 相手のリターンボールを白井さんが大きくアウトしてフィフティーン・オール。 白井さんがダブルフォールトをして、フィフティーン・サーティ。 相手がまたしてもリターンボールをネットにひっかけてサーティ・オール。 ぜんぜん、ラリーがない。なんていうレベルの試合なんだ。 白井さんがまたしてもダブルフォールトを出して、サーティ・フォーティ。 あとひとつ落とせば負け。 白井さんのファーストサービス。フォールト！ セカンドサービス。ゆっくりとネットを越えて入る。それを、相手が白井さんの方に打ち返す。石井は、前を向いたまま、背中に白井さんのラケットがボールを打つ音を聞いた。相手の前衛がボールを見ながら後ろに下がる。その動きからロブが上がったものと判断して、石井は相手の前衛の前に駆け寄った。勝負だ！ 相手がハイボレーなどという器用なワザをろくに使えないことを見越して、ゆるいボールが戻ってきたところを叩くつもりだった。 ところが、後ろに下がったはずの前衛が、あわてて前進してくる。えっ？ なんで？ そう思った瞬間、石井の背後からゆるい山なりのボールがネットを越えていった。相手にとっての大チャンスボール。スマッシュを打ってくださいと言わんばかりの打ちごろのボール。もしかして、それに向かって、自分は顔面から突っ込んでいっているのか？ 相手のラケットが振り下ろされる。ラケットがボールをとらえる音がコート上に響き渡り、次の瞬間、ボールが石井の顔面をとらえる音が響き渡っていた。うそっ！ 思わずラケットを放り出して、顔を抑えながらひっくり返る。 「大丈夫ですか？」 あわてて駆け寄った白井さんの声が聞こえる。 ああ、情けねえ。スマッシュにむかって顔面から突っ込むなんて、どこぞの誰かさんじゃあるまいに。 「鼻血。鼻血、出てない？ 大丈夫？」 いつぞやの白井さんの物真似をして、思わず自分で笑い出してしまう。 「もう、ふざけないでくださいよ。大丈夫なんですね」 「ああ、だけど、負けちゃったね。ごめん。全敗だ」 「今回が初めてですから、しょうがないですよ。でも、次は勝ちましょうね」 次もあるのかよ！ ま、いっか。次はきっと、もうちょっとは楽しめるさ。運がよければ、ひとつぐらいは勝てるかもしれないし。
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